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少女歌劇座の記憶

平成31年4月2日付の宮崎日日新聞朝刊に、私(副住職)が寄稿した文章が掲載されました。

 

(掲載された文章)

3月23日、彼岸の合間に、宮日会館で開催された「日本少女歌劇座展」に足を運んだ。 

    日本少女歌劇座は大正から昭和前半に活動した劇団である。しかも、その本拠地「孔雀劇場」は宮崎市末広町にあり、国内はもちろん、台湾、朝鮮、旧満州でも興行していた。

    戦後は宮崎出身のスターが増えたのも特徴で、全国や世界を股にかける劇団が宮崎のこの町を拠点にしていた。何だか胸の熱くなるような話だ。

 私のいる末広町の立正寺にも、劇団の方が興行前によく祈願に来て、「劇場に遊びに来なさいよ」と声を掛けてくれたのだと祖母は言う。

 しかし、実際に見た人からすれば、かつて日常であった「記憶」でも、30代の私からすれば、直接知る由もない「歴史」である。

 すぐ近くに、そんな劇場があったのに、先々それを知る人がいなくなれば、その歴史の存在すら、消えたのと同義になってしまう。そんな恐ろしさを感じた。

 この町の住民として、僧侶として、町の歴史となる記憶を、少しでも次の代に伝える大切さを再確認した。

 

   「日本少女歌劇座」と聞いてピンと来る人はきっと少ないでしょう。

    もつい最近まで全く知りませんでした。

    知ったのはつい最近、お彼岸の中日の行事が終わって片付けをしていて、ある檀家さんと私の祖母(先代住職の妻、歌劇座があった頃の初代住職の娘)とが本堂で立ち話をしていたとき、たまたま横を通った私に聴こえてきた話です。

    「歌劇座の方が来られてたんですか!?」

   「あんた(祖母)も劇場に遊びん来ないよ(宮崎弁で遊びに来なさいよの意)て、よう言われちょったとよ。」

   「いやあ、それはね、凄いことですよ。」

    最初は何のことかも分かりませんでした。

    しばらくして、祖母とその話をしていた檀家さんから電話がありました。

    電話を取った私に「さっきの話、少女歌劇座をお調べになっている学者さんがいらっしゃるんです。しかも、今、宮崎で少女歌劇座展をやっていて、その監修をしている関係で、宮崎にお越しになるんです。話をしてみるので、ぜひお寺に来られていたことをお伝えするべきだ。」

といった旨のお話。

    まだ私は事情がよく分かっていなかったのですが、「いずれ学者さんとお繋ぎするので祖母に伝えて欲しい」とのことだったので、近くにいた祖母に伝えました。

   「そんなうちに時間を使わんでもいいっちゃが」

    学者さんと話す、ということに少し億劫そうな反応でしたが、そこで初めて、私は少女歌劇座について少し話を聞きました。

    かつて、日本少女歌劇座という劇団があり、宮崎を中心に活躍していた――立正寺のすぐ近くに劇団直営の「孔雀劇場」(他の資料を見ると、今の団地がある辺りの模様)や、劇団員さんの寮(こちらは元宮町)などがあったそうです。

 その劇団の経営者の方が劇団員さんを連れて立正寺によくお参りに来たり、祈願をされていたそうです。

 そんなときに、当時の祖母に気さくに話しかけてくれたのだとか。

    立正寺によくいらっしゃる方にも少女歌劇座の追っかけをしていた、なんて方もいらっしゃるとのことで、聞いているとちょっと興味が湧いてきました。

 興味の湧いた私は、学者さんとのお話はともかく、その「日本少女歌劇座展」に行くことにしました。

 

 行ったのはちょうど座談会のある3月23日。
 座談会があるとあって、会場には懐かしんでいるような方がたくさん。

 当時の貴重なチラシや、スターたちの写真等、雰囲気がうかがえるような資料が展示されていました。戦後の資料からは宮崎の地名もチラホラ。

 しばらくして、座談会が始まるというので、拝聴しました。

 登壇されたのは、先述した、この展示の監修をされている京都文教大学の鵜飼正樹先生に加え、宮崎民族学会名誉会長の原田解先生、NPO法人宝塚生涯学習研究科理事長の倉橋滋樹先生の3名。

 それぞれの視点から、少女歌劇座についての考察がなされました。

 

(そのお話を総合すると)
 日本少女歌劇座は、大正期に、先んじてブームとなった宝塚歌劇団に続く形で、全国各地で少女歌劇団が結成される、いわゆる「少女歌劇ブーム」が起きた中で結成された劇団であり、当初は大阪の旧日下温泉(日下遊園地という大きな施設があったそうです)の専属劇団だったそうです。

 そこから、全国を巡演するうちに、運営の島幹雄氏により、日下温泉から離れ奈良県旧郡山町に本社を置き、昭和10年代に、宮崎市末広町にあった劇場を買収し、「孔雀劇場」を開場。以降、宮崎を拠点として、お正月は宮崎内を巡演するなど、その後、昭和30年代頃に活動が確認できなくなるものの、大人気だったようです。

 座談会の最後に、会場にお越しになっていた当時劇団員だった方のお話もありましたが、華やかなお話とともに、当時の辛い心境もお話しになっていました。

 やはり、華やかな世界といえども、戦後の物のない時代。当時は家に明かりもちゃんとなかった時代。観客も「劇場に行けば明るい照明で励ましてもらえた」というような時代。
 様々な状況を考えると、劇団員の生活も楽ではなかったことが拝察されます。

 少女歌劇座の話を追うことで、こうした当時の状況も垣間見えてきました。
 

 私が生まれ育ったこの宮崎で起きていたことですが、そんな面影を感じることもなく、話を聞くことがなければ、全く触れずに一生を終えていたかもしれません。

 
 当時を知る方々からすれば、当たり前の共通認識ですが、若い我々は、それを知る人から聞いたり、その人の遺した資料を追うことでしか知るすべがありません。
 当事者の方が亡くなって事情を聞けなくなり、もし資料も遺されていなければ、もう調べるすべがなくなってしまう事実もある。そうするとその歴史はもう存在しなかった(失われた)のと同じこととなってしまう。
 だから若い人が主に問題意識(事実が分からなくなってしまう危機感)を持ち、調べることが多い。
 例えば、こうした近現代史を調べる研究者に比較的若い学者が多いのも、そのためであると言われます。近現代史の学問が「若い学問」と呼ばれることがありますが、その所以です。

 かつてお寺に参拝された方のそうした思いも、こうして触れることがなければ忘れ去られることになったかもしれない。

 歴史が失われることのある意味での恐ろしさを感じたとともに、お寺、僧侶の私が、町の歴史や、そうした方々の思いを記録・記憶して、次代に思いを紡ぐ。そんな役割も必要なのではないかと思い至りました。

 半ば記録になればという想いで長々と記しました。
 最後までお読みいただけたなら幸甚です。合掌

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